No.9 吉名効果1
   物心も付かない彼の数え年3歳の年は干支で言うと癸亥の年ですが、その癸亥の年の夏に彼は父を亡くし同じ年の暮に今度は幼い彼が風邪を拗(こじ)らせてから悪性肺炎を誘発し危篤状態となりましたが、抗生物質の無い時代の事だったので医者から手遅れを宣告されました。

 彼の母は気丈な女性でしたが、同じ年に最愛の夫を亡くし今度はその愛児までが病魔に襲われましたが、貧困な大正末期の医療事情下では湿布以外には治療の方法も無く、抗生物質やペニシリンなどもなく、医者から絶望を宣告されれば何とも手に負えない時代でした。
 
 度重なる不幸に動転(どうてん)する人は多く、気の弱い女性ならば幼児を道連れの母子心中なども有り得る深刻な状態の時にも楽天家の彼の母は苦しい時の神頼みと考え重なる諸悪の根源が彼の名前にあると考え、彼に纏(まつ)わりつく不幸を断ち切ってやろうと考えた末に一大決意で、彼の母が懇意にしていた知人に相談して、その人の紹介で或る霊理学派姓名学者の門を叩く決意を固めましたと言います。不思議な事に彼は3歳の肺炎を患った時の改名以後は85歳の今でも本当に病気をしない丈夫な子供となりましたが、彼の母は生前に思い出した様に、こんな事を洩(も)らしました。

 「お前が三つの時に肺炎で死に罹った時、看病に疲れ、つい、うとうとして居たら、お前が井戸に落ちて、助けたくとも体が竦(すく)んで金縛りにあった様に固まり、声も出なかったが、死んだ父ちゃんが井戸に身を乗り出して、片手で井戸からお前を救い上げた夢を見た」

 それは彼の母が霊理学派姓名学の人に彼の吉名を貰ったその晩の事であったと言います。
 昭和8年は彼の人生を根底から変えた特筆すべき年でありました。

  彼の母は刺繍(ししゅう)に特別の才能があり、お得意の呉服屋からの注文をこなすだけで母子が食べて行けるだけの収入はありましたが、一頃の「ガチャ万」と言う程の景気はありませんが、大正末期では、機屋(はたや)と言われた銘仙(めいせん)織物(おりもの)を取り扱う職業が盛んでありましたから、彼を機屋にする希望がありましたが、そのころの機屋は「ガチャ万」と言われ、銘仙を織る織機がガチャ、ガチャと筬(おさ)が一往復する度に1万円、2万円と金が入る織屋成金を指す言葉で、今ほど多彩な職業が無かった頃は機屋は魅力のある職業であったと思われていましたから、彼の母は彼に工業学校の色染科を受験する事を望んだのですが、彼も学校の成績も良かったので、誰もが、彼が合格するものと思っていましたが、工業学校の合格者発表には何故か、彼の名前はありませんでした。

彼の母は彼に落ちる理由は無いと信じていましたから、非情に落胆しました。

  大正末期から昭和初頭に掛けての教育事情は高等小学校が一般的であり、中学や女学校に進学させる家は余程裕福な家か知識階級であって、若し進学させたとしても手に職を持たせる工業学校か、銀行や役所に勤める商業学校の職業校でありましたが、彼の住む地方都市には商業学校がなく、進学校の中学、野球が強い工業と女学校が県立中等学校であり、エリート校でありましたが、県立工業に落ちた子供は一生落第坊主の刻印(ごくいん)を押されました。

 今日なら子供の適正な才能を活かす教育が薦められますが、昔の教育は右脳や左脳の作用を熟知した適性検査などありませんから、大方の子供は何も考えず親が決めた進路を進む事になり、彼も母の意思に従いましたが、彼に取り最も不適正な進学コースでありました。



 彼は天性の不器用で5本の指が親指であり絵を描かせても小学生より下手で幼稚園児並(なみ)で色彩感覚はゼロ、どんなに苦心しても折り紙の鶴が折れず計算は苦手、推理力がゼロです。将棋などは目先だけを考えられても二手、三手の先などは見当も付かず、小学生相手に飛車角落としで挑(いど)んでも勝てない彼が記憶だけは人一倍強いのですから、典型的な文系です。直感で物を考える彼は生来の粗忽者(そこつもの)ですから、工業入試の時でも一番得意とする国語で点の取れる振り仮名や漢字の書き取りを後回しにして、課題の作文に夢中になって、それを書きあげると、後回しにしていた書き取りや振りがななどの問題をすっかり忘れ果てて、悠々と時間を余して答案を提出すると言う軽率ぶりがミスを誘って工業学校を落ちました。

 落第坊主の彼は秀才だなどと誉めた同級生から今度は嘲笑され、辛い虐(いじ)めに苦しみましたが、実はこの工業学校の落第こそが、彼の運命を大きく変えた絶好の運命の転換でした。
翌年、彼の入った高等小学校が簿記や商業を教える三年制の乙種商業に昇格したのです。
実業補修学校と呼ばれたこの学校の教科は推理や計算よりも暗記を要する学科ばかりです。彼は進駐軍通訳から通訳案内業、英語教室経営と英語を専門とする職業に従事しましたが工業卒だったら彼の才能を生かせる職業には絶対に就けなかったのだと断言出来るのです。

 実業学校の授業は頗(すこぶ)る簡単で計算は疎(うと)くとも単語の暗記なども頗る簡単でしたから、教科書など容易に暗記する事が出来て彼には宿題を家に持ち帰った記憶が一度もありません。
彼は15歳の年に故郷の3年制の乙種商業学校(現在の新制中学)を卒業と同時に上京して5年制の甲種商業を目指しましたが、その目的は彼が図書館で読んだ本(頭が良くても貧乏で中学に行けない人が講義録で独学して専検に合格してから大学に進学して法律を学び、高文を突破後弁護士となり、法曹界で活躍し、更に政治家となって大臣にまで上り詰めた人の日本版アメリカンドリーム)に刺激されたのですが、立志伝の人々が税務署の給仕や小学校の代用教員等の貧しい人々で彼の上京の夢を駆り立てた十分すぎる動機でした。

  彼は霊理学派の姓名学者から吉名を貰って以後の今日迄の長年月に病気らしい病気もせず、古希を過ぎてからの体調が六十代の時よりも寧ろ順調ですが、若い時に描いた老後の生活設計も自分の空想した通りに実現し、心身共に満足感を得ていますから、改めて現在から過去を安定した現在の安堵感を持って回想すると夢の様な満足感をしみじみ感じるのです。乏しい給料で学費を捻出して甲種商業をやっと卒業、中大専門部経済科に入学した頃から日支戦争は泥沼化し、勤めていた経理事務所の所長が召集されて学資が続かず、軍需産業ばかりが繁栄を極め、職を得る事が困難で都落ちを決意しなければならず、学校を休学し中島飛行機製作所の徴用工として働く事を決意しましたが、都落ちの失意の慰めに神田の古本屋街で阿部泰山全集と徳田浩淳師の姓名学書を買い、それ等を昭和17年に召集令状が来る迄の2年間に疲れて工場から帰ってからも熟読しましたが、短期間の研鑚でも彼に推命学の知死期で八十五歳を知り、姓名学では長寿を得られると悟りましたから、応召されても彼が絶対に戦死しないと言う確信を持つ事が出来ましたから、足掛け四年の軍隊生活の精神的支えとなりましたが、軍隊生活中の機動演習中には2度までも九死に一生を得て、危機一髪の危難にも理法姓名学の吉名効果が、有り難い「お守り」となり彼を救いました。




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