彼は天性の不器用で5本の指が親指であり絵を描かせても小学生より下手で幼稚園児並(なみ)で色彩感覚はゼロ、どんなに苦心しても折り紙の鶴が折れず計算は苦手、推理力がゼロです。将棋などは目先だけを考えられても二手、三手の先などは見当も付かず、小学生相手に飛車角落としで挑(いど)んでも勝てない彼が記憶だけは人一倍強いのですから、典型的な文系です。直感で物を考える彼は生来の粗忽者(そこつもの)ですから、工業入試の時でも一番得意とする国語で点の取れる振り仮名や漢字の書き取りを後回しにして、課題の作文に夢中になって、それを書きあげると、後回しにしていた書き取りや振りがななどの問題をすっかり忘れ果てて、悠々と時間を余して答案を提出すると言う軽率ぶりがミスを誘って工業学校を落ちました。
落第坊主の彼は秀才だなどと誉めた同級生から今度は嘲笑され、辛い虐(いじ)めに苦しみましたが、実はこの工業学校の落第こそが、彼の運命を大きく変えた絶好の運命の転換でした。
翌年、彼の入った高等小学校が簿記や商業を教える三年制の乙種商業に昇格したのです。
実業補修学校と呼ばれたこの学校の教科は推理や計算よりも暗記を要する学科ばかりです。彼は進駐軍通訳から通訳案内業、英語教室経営と英語を専門とする職業に従事しましたが工業卒だったら彼の才能を生かせる職業には絶対に就けなかったのだと断言出来るのです。
実業学校の授業は頗(すこぶ)る簡単で計算は疎(うと)くとも単語の暗記なども頗る簡単でしたから、教科書など容易に暗記する事が出来て彼には宿題を家に持ち帰った記憶が一度もありません。
彼は15歳の年に故郷の3年制の乙種商業学校(現在の新制中学)を卒業と同時に上京して5年制の甲種商業を目指しましたが、その目的は彼が図書館で読んだ本(頭が良くても貧乏で中学に行けない人が講義録で独学して専検に合格してから大学に進学して法律を学び、高文を突破後弁護士となり、法曹界で活躍し、更に政治家となって大臣にまで上り詰めた人の日本版アメリカンドリーム)に刺激されたのですが、立志伝の人々が税務署の給仕や小学校の代用教員等の貧しい人々で彼の上京の夢を駆り立てた十分すぎる動機でした。
彼は霊理学派の姓名学者から吉名を貰って以後の今日迄の長年月に病気らしい病気もせず、古希を過ぎてからの体調が六十代の時よりも寧ろ順調ですが、若い時に描いた老後の生活設計も自分の空想した通りに実現し、心身共に満足感を得ていますから、改めて現在から過去を安定した現在の安堵感を持って回想すると夢の様な満足感をしみじみ感じるのです。乏しい給料で学費を捻出して甲種商業をやっと卒業、中大専門部経済科に入学した頃から日支戦争は泥沼化し、勤めていた経理事務所の所長が召集されて学資が続かず、軍需産業ばかりが繁栄を極め、職を得る事が困難で都落ちを決意しなければならず、学校を休学し中島飛行機製作所の徴用工として働く事を決意しましたが、都落ちの失意の慰めに神田の古本屋街で阿部泰山全集と徳田浩淳師の姓名学書を買い、それ等を昭和17年に召集令状が来る迄の2年間に疲れて工場から帰ってからも熟読しましたが、短期間の研鑚でも彼に推命学の知死期で八十五歳を知り、姓名学では長寿を得られると悟りましたから、応召されても彼が絶対に戦死しないと言う確信を持つ事が出来ましたから、足掛け四年の軍隊生活の精神的支えとなりましたが、軍隊生活中の機動演習中には2度までも九死に一生を得て、危機一髪の危難にも理法姓名学の吉名効果が、有り難い「お守り」となり彼を救いました。