「人間臨終図巻」に取り上げられた日本を代表する有名人がどんなに偉い人だったにせよ、「あんな惨めな死に方だけは絶対にしたくない!」と叫ばせるような死に方をした人々を彼は幸福な人の範疇(はんちゅう)に数えず、返って不幸な人と呼ぶ理由は、その人の業績と不幸な死に方とは次元の異なる問題だと考えるからで後生の良い死に方をしなかったなら、どんなに燦然たる栄光の人でも不幸の人だったと考える一方で、例え、名も無く地位も無い人でも、病気や怪我(けが)に悩まされず、一家団欒、平和な家庭を築いて悠々と生涯を終えた人々こそが本当に幸福な人だったと考えますから、「人間臨終図巻」の登場人物が穏やかな死に方か、それとも断末魔の苦悩に苛まれて死んだのかに依って、その人の幸、不幸の判断材料としていますから、その意味で望み通りに絢爛たる桜花の下で死ねた西行法師は幸福な人で、権力の権化藤原道長は盈満(えいまん)の咎(とが)めを受け、糖尿病の合併症で苦しんで死んだので不幸です。三島由紀夫も天寿を全うせず、自衛隊で割腹自殺を遂げたので不幸な人の範疇の人です。
彼は平凡な常識人であり、旧式な倫理観を持つ典型的な大正生まれの人間ですから、戦前の教育勅語式の倫理観を待ち、ベストセラー作家の描く男女の燃えるが如き蕩(とろ)けるような情交の模様を微(び)に入り、細を穿(うが)つ優れた文芸作品であったとしても、情事に没頭して最後に心中を図る結末の小説を芸術作品として鑑賞するだけの教養も学識も見識もありません。往々にして傑作と称される小説には理解し難い芸術観を持つ低俗極まる男でありますから、流行作家の流麗な筆になるベストセラー小説の主人公達が満たされても、満たされても、更に又、限りなく欲望を膨らませて行く情熱を欲望の塊と見る彼は、社会的制約の一切をかなぐり捨てる男女の秘め事に全てを忘れ現を抜かす情況を描いた小説の類には、例え、芸術的だ、見事な描写だと讃美する人がいたとしても、昔、友人が彼に貸した小栗風葉が書いたと言う艶書「袖と袖」の男女の秘事を顕わにした艶本の類を、時と人物を変えただけの小説だと考える彼は満天下の婦女子の紅涙を搾らせると賞賛される小説類には抵抗感を抱き、欲望産業の殷賑が若い世代を堕落に陥れていると言う思いを払拭出来ない男です。
経済を専門に取り扱い、内容が堅いと称される某新聞でも有名な流行作家の小説が二度に亙り掲載されましたが共にベストセラーであって、有島武郎と田村秋子の情事事件が異なる著者によって異なる形式で小説化されて居ると彼には思われて、何れも主人公は愛する女性、而かも他人の人妻に対し、彼女の夫から満たされぬ性の満足感を与える為に必死とも言える主人公の秘技により絶頂感を与えられた平凡な人妻が遂には家庭を捨てる破壊行動を平然と行うとすれば、社会的に問題だと考える彼は西鶴の「好色一代男」以上に性の修行に現を抜かす主人公を赦せないと考える心の狭い男であって、主人公の小説家に依って夫から得られぬ絶頂観を体験した貞淑だった平凡な人妻が、最早平凡な夫との性交渉を嫌うのも、彼女が求める性感を得らないと言う苦痛が彼女に欲望の無限地獄の呵責を与え、悶え狂いさせると考えると、彼には近松浄瑠璃の真髄が理解出来ない無粋な男だと自らも考えますから、ノーベル芸術賞の候補に挙がった絢爛たる三島文学の芸術性を理解、把握する心情や教養に欠ける恨みを自分でも抱居て悲しくなりますが、三島由紀夫が真の芸術小説と激賞するジョルジュ・バタイユの「マダム・エドワルダ」などは翻訳文の難解さから卑猥な文章の羅列と写り彼の芸術的思いを麻痺させて、寧ろ唾棄(だき)すべきとさえ思わせます。