或る長男夫婦と孫と同居する80代の母親は土蔵の中に入れられ、寝具や衣料も十分で無く、排便の後始末もされず食事は一日に一回だけ、鍋の中にご飯が少しと梅干一個だけが入り、母親の周囲からは異臭が鼻を突き、脱水症状が酷(ひど)く生ける屍(しかばね)で、民生委員が見かねて入院させると、世間体を気にした長男家族が直ぐに連れ戻したと言います。
食事を与えず、おむつ交換もせず、完全な介護放棄が行われ、親が暴れるからと柱に縛り付け、介護疲れでストレスが溜まり、経済的に困れば親に対する暴力行為も日常茶飯事に発生し、子供に全財産を搾り取られた親の場合は惨めですが、彼は40年前に自分の目で、或る老婆の鉄道自殺の一部始終を見て金が敵の世の中の陰惨な事実を否定出来ないのです。
或る梅雨の煙る午後、散歩がてら鉄道の踏切を越えてから銀行の角を曲がって100メートル先にある郵便局まで郵便物を出しに家を出ましたが、何時も通る踏み切りに差し掛かった時、列車の警笛が何故か何回も鋭く鳴っているように聞こえ、何気なく左の線路の方を見ましたら前方50メートルほど先の線路上に何か黒い影が蹲(うずくま)っているのですが、そこは人と自転車がやっと通れるくらいの、信号機も無い小さな踏切で、「犬が線路上に迷い込んで、遊んでいるのだろう」と彼はそのまま、何の気にもせずに、踏み切りを通り過ぎたのです。
数メートルも歩かぬ内に彼の背後に列車の黒い大きな翳(かげ)が通り過ぎかと思うと急ブレーキの音と共に金属の激しく摩擦する音と、何かしら物の焦げる異臭と共に5両編成の列車が、踏み切りを少し通過した所で停止し、間近に見る蒸気機関車の大きさに圧倒されました。
急いで彼も踏み切りに戻って汽車引かれの現場を見ると、夥し(おびただ)い血の海に散乱する肉切れが四方に飛び散り、小さな人の塊が黒山の人垣に囲まれ、雑草が生い茂った線路脇には、薄紫の紫陽花(あじさい)が6月の陰鬱(いんうつ)な長雨に打たれて、鮮やかな色彩で濡れていました。
彼は死体の主が直ぐ直感的に浮かびました。
今朝の散歩の途中、その老婆が同年輩らしい老婆と夢中で話しをしている姿を見ています。誰かを罵る様な口調で髪を振り乱した陰惨な姿は芝居で見る安達が原の老婆そっくりです。「藤五郎には騙(だま)されたよ! 死んであいつを呪い殺してやる!」
彼の耳朶に長く響いた物騒な喚き声の主が飛び込み自殺を計ったのですが、理由は簡単で、
彼女の夫の残した2反の土地が土地ブームで思いもかけず値上がりしましたから、次男が横取りを企み、老婆と彼女を世話する長男の嫁とが喧嘩ばかりしているのを奇禍として言葉巧みに老母を自分の家に連れ込み上(あ)げ膳、据(す)え膳で老婆を懐柔し「藤五郎の嫁くらい良い嫁はいない、良く気が付くし、風呂で背中も流すし、親切で、私は本当に果報者(かほうもの)だ」と老婆が自慢している間もなく、今度は毎日、毎晩、老婆と藤五郎とが口汚く罵り合う声が聞こえて来て、「約束が違う!」と藤五郎に武者振り付けば藤五郎が情容赦も無く軽い老婆を担ぎ上げて戸外に放り投げるのですが、土地を手に入れてしまえば世話の焼ける母親など無用の長物で、孫迄もが「汚い!」と邪険(じゃけん)に取り扱い、騙されたと知った老婆には息子を呪いながらの鉄道自殺が彼女に出来る精一杯の反抗でしたが、因果応報、深酒と過度の喫煙の咎めで藤五郎は胃癌を病み、薬を飲めば吐き、身体に栄養を付ける為に食べれば吐き、5年の餓鬼地獄に喘ぎながら死んだ日は、彼の老母の命日だったと聞いています。