No.1 或る決意1

 彼は午後3時になると来客と雨が降らない限りは庭に設置したピッチバックネットに野球の軟式ボールを右腕で500球、左腕で500球づつ交互に毎日合計1千球を投げ込むのですが、ボール投げは凍りつく厳冬でも大風や汗滴り落ちる炎天下や心地よい小春日和の日でも、盆でも正月でも投げる事を日課、又はノルマともしているので少しも疲労を感じないのです。雨の日はボール投げに代えて散歩ですが、レインコートとゴム長靴に身を固め、傘をさし、町内約4キロ程度を歩き廻る事を心掛け、運動量を適切に按配(あんばい)して細胞が劣化しないように老化が進んだ老齢の身でも、毎日力一杯、自分に掛かる負荷を己の手で調整しながら大体1時間程度の戸外運動をこなし、夕方5時からは二階に置いた距離計付き固定式自転車を約5キロ漕いで脚の運動も欠かさず、その間にぶら下がり器に百回ぶら下がり、頭を基点にした三点倒立を百回行い、足踏みマットを30分間踏むのですが、不意の来客があったり、突然急用が出来てボール投げが出来ない場合は、自転車をその分だけ余分に漕ぎ、平均した運動量を毎日欠かさず行うので、この運動が習慣になって老体でもスムーズにボールを投げ、懸垂も苦にならず、肘の関節も痛みを感じず、適度の運動と適度の休息が心身の補強に役立って肩凝りや腰の痛みなどがあっても市販の湿布薬を貼ると治りますから、この運動が彼の健康を適度に維持してくれて市の保険課から来る定期検診を一度も受けた事がありません。

 三食を良く食べ、睡眠も充分、無病息災、健康に生きて、何時の間にか85歳を過ぎました。彼も生身の体ですから、偶(たま)には風邪を引いて微熱があって身体がだるく、側頭部の片隅がチクチクと微かに痛んで水の様な粘液性のない鼻水をテッシュ・ペーパーでかんでも、かんでも流れ出る日などでも、勇気を奮って庭に出て日課の運動を行えば重苦しい沈鬱な暗い気分が吹き飛び、晴れやかな爽快な気分になりますが、引き込んだなと思った時は、熱い湯に浸かって汗を出し、大量に水を飲んで一晩ぐっすり寝ると、翌日はけろりと治っているのです。耐久力や持久力は自らチェックし衰えを感じませんが、麗らかな春の陽光を浴びながらボールを投げる爽快さは、彼に取って何物にも替え難い愉悦(ゆえつ)と思いますが、人はこの様な行為を「老人の冷や水」とか「無鉄砲」だと非難して誹(そし)りますが、彼の運動には時間や金銭的な制約が一切なく、好きな時に好きなだけボールを投げられる最も効率の良い運動であると固く信じていますが、同時に彼の老後の心を最大に慰めてくれる喜びは丹精込めた彼の庭です。

 春になれば百花繚乱、可憐な山茶花(さざんか)の花に続いて真っ赤な椿の花が地面に落ち、黄色の連翹(れんぎょう)が一斉に咲き出す頃から、やしお躑躅(つつじ)、三つ葉躑躅、馬酔木(あしび)が一斉に絢爛と咲き乱れ、木蓮(もくれん)や沙羅(さら)双樹(そうじゅ)と白い皐月(さつき)が終わり、夏となって屹立する米栂(こめつが)や赤松、黒松、樫、槇、もちの木などの緑滴る芽吹き染まる新緑、秋は大きな楓が紅葉し、やまつつじやどうだんつつじ迄が慎ましく紅葉し、晩秋の落ち葉が庭一杯に積もり、冬の雪は枝ぶりの良い赤松や黒松や槙等に白く積もって美しく陽光に煌き、妻が育てる雪の下や松葉菊、朱蘭(しゅらん)、シャガ等の草花類も季節に応じて可憐な美しさで咲き、車を飛ばせば国立公園日光や尾瀬にも伊香保や草津の温泉街も3時間で行ける便利さで地震や台風の被害も少なく、日照時間も長く、住めば都以上でありますが、空気と水が美味な上に冬に上州名物の空っ風が吹き荒んでも風の強い日には、地平線上の雲が吹き飛ばされ、西から東に掛けて真っ白な雪を被った男体山や日光連邦、白根や武尊(ほたか)の峰々、谷川は赤城に隠れ見えませんが、榛名も妙義も陽光に煌(きらめ)き、西に浅間の煙が棚引き東に筑波まで見えるのですから、彼は適度の運動も楽しめ、好きな庭に心を慰められ、車を走らせれば風光明媚の風景を楽しめるこの地を終の棲家の天国と思っています。


  彼は両親が早く死んでいるので、遺伝的には夭死する短命の遺伝子を受け継いでいますが、15歳で3年制の乙種商業学校を出てから、中大専門部経済科を出る迄の5年間の苦学時代は血の滲む劣悪な環境を克服し、その足掛け4年の軍隊生活では陰湿な古参兵の私的制裁にも良く耐え、戦後の狂瀾怒涛を生き抜き高度成長経済のインフレの大浪を凌(しの)ぎ、平成大不況のデフレの重圧にも押し潰されずに85歳と80歳の老夫婦が悠々自適の生活を送れ、二人が揃って健康を保持する喜びを自らのSuccessful Agingと考えていますが、彼は物心付いてから85歳まで三日以上を病気や怪我(けが)を含めて病床に臥した事がなく、彼の妻も結婚してから二回の産休以外には学校を休んだ事がなく退職後30年間一回も医者に罹りませんから、彼達夫婦には、何か特別な健康を守る「お守り」などを持つのではないかと言う人もいます。彼等の健康の秘密は理法姓名学の吉名効果の「お守り」であると彼も彼の妻も信じています。この様に平穏無事、体の何処にも痛い痒いが無い健康を謳歌して金婚式を過ぎた彼等夫婦は、幸せすぎて何時死んでも悔いがないと言う気持ちですが、果たして孫の時代はどうか、二人の孫の将来を考えると、これ又、取り越し苦労の心配が出て来ますが、排日、抗日を国是とする隣国群を控えた資源小国の日本の将来を考えると、一抹の心配をどうしても拭えません。

 サミット開催を狙ったロンドン同時爆破事件は遠い国の事件でも、国内だけでも大型台風の襲来、大雨洪水、火山活動や地殻変動の地震、農薬汚染の米や野菜、鯉ヘルペス、鳥インフルエンザ、狂牛病等に加え、目に見えないSARSや0―157等の微細なウイルスや細菌類は忍者の如く侵入して尊い命を奪うのですが、出生率低下や少子化問題も騒がれる一方、就業者達の自殺が、平成15年度だけでも3万人を越えたと報道され、その逸失所得は年間約8500億円以上と言われますからDGP押し下げ効果は同4400億円にも及びますが、自殺者の30%から70%が鬱病で、東大出のMBAも居ると聞きますと、多事多難の日本に取って一億国民が国難に対抗出来る最善の方策は誰もが病気に罹(かか)らないで常に健康体を保つと言う事です。

 昨今の新聞にフリーターとかニートなどの言葉が多く目に付きますが、ニートとはNot in Education, Employment, or Training の略字で、働く意欲、学ぶ意思、働く気持を持たない人を指すのだと聞くと、彼は戦前の言葉の高等遊民ー大学は出たけれど働かずして親の脛を齧る若者―を思い出し、働かずして年金を貰い優雅な老後を生きる彼も又、態(てい)の良いニートではないかと忸怩(じくじ)たる思いで一杯ですが、老人でも国難に臨んで、高等遊民の安逸な生活に甘んじてはならないと考えた末に、これからの狂瀾怒涛の日本を救う唯一の道は国民の健康と幸福だと信じ、短命ミトコンドリア遺伝子の所有者の彼でも理法姓名学の吉名効果の「お守り」のお陰で益軒の得られなかった85歳からの上寿の余命を無病息災で生られるので、その実証を西行法師に倣い全国に説く積もりですが、西行法師が全国行脚に活路を求めても、彼は最も殷賑(いんしん)を極める都心に出て、理法姓名学の吉名効果を啓蒙する決意を固めました。




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